青山アパート

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同潤会(1926〜1927)

2003年に解体され、安藤忠雄の計画によって建て替えられました。ところで、ここ青山にかぎらず、同潤会アパートの取り壊しをめぐっては、さまざまな反対運動、保存運動が起こりました。この場を借りて、いささか私の考えを書きたいと思います。

私の住んでいた文京区の近辺にも、大塚女子アパートと江戸川アパートという二つの同潤会アパートがありました。解体の前には、保存運動もそれなりにありました。しかし、この二つについては、私は「取り壊されて当然」だと思います。理由を一言で言えば、建物の魅力を保つための努力が全くなされてこなかったからです。

いつだったか、解体前の大塚女子アパートがテレビで取り上げられ、元住人の作家、戸川昌子さんが出ていました。戸川さんがアパートを案内してくれるのですが、「ここは音楽室で、ピアノに合わせて合唱をしたものです」という部屋のピアノはとうの昔に壊れており、もう音も出ません。サンルームだったという場所も、今は瓦礫の山です。「各部屋の電気ヒューズは10アンペアで、それで十分だったんですよ」という電源容量は、その後も変わっていません。空き部屋が点々としており、残った居住者は80を超えるような老女ばかりです。薄暗く、ぼろぼろで、はっきり言ってお化け屋敷なのです。当初は「すばらしかった」というさまざまな設備は、壊れればそのまま放置され、ましてや、若い居住者を入れるための改善は全くなされていませんでした。

(↑なにぶん、番組を見たのが何年も前なので、いろいろ記憶違いがあるかもしれません。とにかく、全体から受けた印象はだいたい上のようなものだったのです。)

しかし、古い建築物を使い続けようと思ったら、常に手を入れ、時代の要求に合わせる努力をしていかなければならないでしょう。昔は電源10アンペアで足りたかもしれませんが、今、それで十分と思う人がいるでしょうか。ほかにも、部屋の間取りをいじって一室あたりの面積を増やすとか、内装をモダンにするとか、音楽室や共同浴場が時代遅れならほかの用途を考えるとか、すべきことは山ほどあったと思うのです。

そのためには、当然、お金がかかるでしょう。同潤会アパートの場合、震災後の「貧民救済」的発想から造られたという事情がありますから、金銭負担の問題はとりわけデリケートだったかもしれません。民間のマンションとは、わけが違うのでしょう。しかしやはり、それは使用者が持ち主と協力して解決すべきことだったと思います。住む人が負担を拒んで荒れ放題にまかせては、建物は急速に老朽化します。すると、新しい若い居住者が入ってこず、住民の数は減るばかりですから、お金の捻出はますます困難になります。こうなってしまうと、もはや悪循環で、いずれ解体への道は避けがたいでしょう。私は、少なくとも大塚と江戸川に関しては、取り壊しに至った責任の一端は居住者の努力不足にあったと思います。住民たちが、持ち主ともども、それらの建物を価値のないものにしてしまったのです。

あそこまでひどい状態になってから、やれ歴史的資料だ文化的価値だと叫んで保存を訴えても、もはやむなしく響くばかりです。解体反対派には、何らかの博物館にすればよいといった案もあったようですが、私はそれにもあまり賛成できません。アパートは、アパートとして使い続けられてこそ、意味があるのではないでしょうか。

さて、青山アパートに話を戻しますと、こちらは大塚や江戸川と比べてはるかに、魅力を保つための使用者の努力が見られました。入居している店舗は、古い建物の特有の雰囲気をできるだけ活かそうとしていました。ですから私は、青山も「取り壊されて当然」だったとは、全く思っていません。

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