大学セミナー・ハウス

吉阪隆正(1965)

写真にある、ピラミッドを逆向きに大地に打ちつけたような建物が本館です。これを基点として、宿舎やセミナー室などが展開します。敷地は広くて起伏があり、緑も豊かです。私の参加する「哲学若手研究者フォーラム」が、一時期ここで開催されており、真夏の猛暑の盛りに夜更けまで議論を戦わせたものです。

今日の大学では、教員の研究室はもちろんのこと、学生寮も個室が当たり前になりましたが、ここの宿舎は2名1室の山小屋風、便所に行くにも靴を履いて屋外に出ねばならず、清貧の精神が生き続けています。食事が不味いのだけはもう少し改善してくださいと言ったら、馬鹿、贅沢を言うなと叱られるでしょうか。

この逆ピラミッドの形は何なのだ、と考えたとき、1960年代半ば時点での、社会における大学というものの位置づけを理解する必要があるでしょう。あいにく私自身は生まれてすらおらず、想像力もよく働きませんが、60年代半ばと言えば、安保闘争と全共闘運動の過渡期にあたります。学生のあいだに、社会と闘う気運が今とは比較にならないほど強く、その闘争心は、こうした場所でわからないなりにも夜な夜なマルクスを論じたりすることを通じて培われたのでしょう。

それはもちろん、このセミナー・ハウスが、左翼運動、政治運動のアジトとなるべく準備されたという意味ではありません。そんなものを、大学当局がわざわざ造るわけもないでしょう。しかしたとえば1968年には、興味深いことに、日本学生同盟という右翼系の組織の主催によって、三島由紀夫らを招いてここで合宿が行われたという記録があります。したがって、いずれにせよ、学生がイデオロギーの担い手だった時代の産物であることに違いないのです。

ところがこれに対して、われわれの「哲学若手研究者フォーラム」はと言えば、こちらはカケラほどの政治色もない組織ですから、三島由紀夫が学生たちと天下国家を語り合った時代とは、やはり隔世の感があると言わざるをえません。

逆ピラミッド形に話を戻しますと、これは結局、大学というものが社会にクサビを打ち込むという発想なのではないかと思います。今の大学はそれと対照的に、社会に開かれ社会に奉仕するという優等生的な考えにすっかり馴染んでしまいましたから、仮に今こうした施設を造ったら、逆さではないふつうの向きに、ガラスのピラミッドでも建てることになりそうです。しかし、60年代というこの時代は、そうではありませんでした。大地が社会一般を表象するとすれば、この建築物が表象する大学、学生は、それに鋭く闘争的な仕方で食い込んでいるのです。

大学セミナー・ハウス

<写真はクリックすると拡大します>


ARCHITECTURE HOME