日本生命日比谷ビル

★★

村野藤吾(1963)

『負ける建築』という本で、隈研吾は17ページを割いてこの作品を論じています。折角ですから、ここは彼に案内してもらいましょう。

1963年、現代日本におけるモダニズムという課題設定の中で多くの傑作が生み出されていた時期に、この作品は時代遅れの様式主義として軽蔑のまなざしとともに迎えられました。石積みの形態をとった外壁、柱をあしらった窓などに、その様式主義的な特徴がはっきりとあらわれています。

ところが隈によると、この様式主義風の印象はいわば見せかけのものであり、至るところに「裏切り」の兆候が秘められています。たとえば本来、モダニズムよりも前の時代の建築では、外壁は建築物の自重を支えるために相当の厚みがあるものですが、この作品では、窓を覗くと外壁の薄さがはっきりとわかります。しかも、壁が重量を支えるものであるならば、窓は構造柱の間に穿たれるのが原則です。だというのに、ここでは一階の太い柱の真上に二階以上の窓が開かれ、結果として壁の方が構造柱の間に配されることになり、壁がただの表皮にすぎないことが再び強調されます。

さらに、低層部、中層部、屋階部という三つの層からなる三層構造は、この作品と古典主義建築に共通する基本構造です。しかしながら、本来の古典主義では、下に行くほど重量感のあるもの、上に行くほど軽やかなものという配分によって、全体の安定感が得られるものであるのに対して、この作品ではそれが逆になり、一階よりも二階が、二階よりも三階以上の方が前に張り出すという異様な配分がなされています。

隈の口から上のような話を聞くと、彼は村野をポストモダニズムの先駆として祭り上げ、かつて自らがその旗手であった陣営に引き込もうとしているのではないかという印象を受けますが、さすがにそのような露骨なことは言っていません。むしろ彼は、インターナショナル・スタイルの登場によって敗北を喫するまで、ニューヨークで一世を風靡したアールデコが、日本という特殊な環境において20世紀後半まで生き延びたものとして村野を捉え、その特殊性の探究に向かうのです。

最後にひとつ、忘れてはならぬことがあります。日比谷公園前を歩くときには、これと小道をはさんで並び建つ、もうひとつの独創的な傑作を心に思い描かねばなりません。1967年までの数年間、この村野作品と肩を並べて、そこにはフランク・ロイド・ライトの帝国ホテルの姿があったのです。

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