東光園

★★★

菊竹清訓(1964)

米子近郊の皆生温泉にある東光園は温泉旅館で、二名以上、二食付きで泊まるのが基本のようです。いわゆる高級旅館の部類に入るのかどうかは知りませんが、お値段はそれほど安くありません。私は今回、出張のついでに立ち寄ったので、外観をちらりと見ただけで写真も撮らず、いずれまたの機会にしかるべき人と泊まりに来ようと心に決めたのでした。

伊東豊雄は『風の変容体』で、つぎのように述べています。「実際に東光園は菊竹氏の作品のなかで最も氏らしい傑作であると思う。ここには氏の鋭い感受性と論理の整合性への強い希求という一見相矛盾する二つの要素が緊張を保ちながらバランスした結晶体をみることができる。」また、伊東の上掲書からの孫引きになりますが、原広司もこう書いています。「菊竹清訓はおそらく、美しい建築をのりこえて、不気味な建築に挑むであろう。そのきざしを私はこの建築の潜在力として感ずるのである。」(『新建築』1965年4月号)

出来損ないの香川県庁舎というのが、見た目から受ける圧倒的な印象です。ですが、考えれば考えるほど、この「出来損ない」という点は菊竹作品の本質であり、モダニズム建築との違いでもあると思うのです。モダニズムの機能主義的な作品では、全体を束ねる構想が先にあり、そこから最善のプロポーションが一挙に帰結します。ですから外見上も、無駄のない、端正な姿ができあがって当然です。

これに対して、メタボリズムを標榜する菊竹の場合には、作品は生き物のように育ってゆくという発想があります。さて、生き物の外見とは、一般にどのようなものでしょうか。確かに生き物には、驚くべき多様な機能が凝縮されており、そしてその外見も、その機能を反映したものだと言うことができます。たとえば、人間の姿かたちは、生き物としての人間が持つ機能からある程度必然的に決まってきます。しかし生き物の場合、見た目は機能から論理的に完全に決まるのではなく、やはり偶然に左右される余地を多分に残していると言えるでしょう。たとえば樹木は、一本一本が異なった仕方で枝分かれし、曲がりくねっていたりこぶがあったりします。これは、その樹木が経てきたさまざまな偶然の出来事の所産です。われわれの顔もそうです。ギリシャ彫刻のような、完璧な均整の取れた顔をしている人などいません。人の顔はそれぞれが異なっており、みなそれぞれの仕方で、理想のプロポーションから外れています。つまり、現実の人間の顔はみな、多かれ少なかれ「出来損ない」なのです。

この意味で、菊竹作品につねに感じる「出来損ない」性は、建築を生き物との類比で捉えるメタボリズムの発想を的確に反映したものであることがわかります。そして、さきほどの伊東の言葉を借りれば、メタボリズムという思想そのものは「論理の整合性」を希求するものであるのに対して、個々の作品においていかに出来損なうかの偶然性は、建築家の「鋭い感受性」がもたらすものだということになるでしょう。じつに、この東光園は見事な出来損ないです。「おお、この木は面白い格好をしているなあ」という感覚にも似た、比類なき驚嘆の念に襲われること必定です。

写真なし


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